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某月某日 2ヶ月に一度の定期通院@アプリコットの林大学病院。経過観察はいつまで続くのだろうか?でもここへこうしてまた戻ってこれたなという安堵する気持ちもあって、それから主治医先生のお顔を拝見すれば、あの入院当時が思いだされ、健康であることのありがたさを再認識させてもらって帰ってこれる。そして恒例のぶらり散歩への流れは、天候次第ではあるけれども、ここ何回も連続して実施されてきた。


どこへ行こうかなとWにまたがって人見街道を行くと、我が母校が学園祭をやっていて通りが賑やかである。ちらりと立ち寄ってみるかと、数十年ぶりに正門をくぐった。
在校当時はラグビーが強いだけの男子校だったこの学校は、今や男女共学だとか、中学も併設されたりだとかでどうも雰囲気が違う。自分だってもう在校生の父親ですっていってもまったくおかしくない年齢であることを思えば大きな変化も当然なのだろう。変わらないのは、芝生の庭の奥にそびえる本校舎の佇まいだけだろうか。
門の先には「父兄」と「受験生」という2つの受付があって、角材で骨組みを組んでベニヤ板を打ちつけた学園祭入場門が作られていて、ごちゃごちゃと絵が描かれている。阿弥陀如来増と、「こち亀」の両津巡査長が並んでいた。描いた本人同士の一歩も譲らない姿勢が想像できて出来栄えの違和感よりもそちらのほうを想像して笑える。

学校を後にして玉川上水沿を歩いてみた。流れを覆い隠すように茂る草木はまだ夏を引きずっているかのようだ。ここは懐かしい通学路である。武蔵野の面影がほぼあの頃のままに残っていることが嬉しくて駅までの道をしばらく歩いてみたりした。





















 
 
 

 








































学校の隣にある団地の中へ紛れ込む。「団地の敷地内っていうのは被写体の宝庫だ」。高度経済成長期にできたであろうこうした「団地」のスケール感は昔の国産車のスケール感とほぼ一緒だ。天井が低いとか通路の幅が狭いとか、今の我々が住むには何かと不便を来たすことも多いかもしれない。 うちの近所の団地も昨年から急ピッチで取り壊していて、その跡地に建った高層化した「公団」の入居がこの夏から始まった。

そんな消え行く風景としての団地の敷地内は「くどいようだが被写体の宝庫だ」。
棟と棟の間隔は広々していて、草花が四季を通じて無造作に咲いている。だれが面倒みているわけではないのだけれども、毎年同じように咲く。建築当時は若木だったであろう様々な樹木はどれも大木となり、団地を見下ろすような木もめずらしくない。
クヌギの木からドングリが落ちていた。季節の変わり目の自然の営みを見ることもできてしまう。いちいち木に名前を記したプレートがかかっていて、無料の植物園としても楽しめる。

フォードトーラスが無造作に駐車してあった。昔憧れだったアメ車のステーションワゴンだ。かなり錆びが出ていたり、ボディに凹みも目立つのではあるのだけれど、かえってそういう状態であることに好感を持ってしまう。ジーンズはそれこそ1年だって洗わないっていう主義と同じで、あまりかまってやらない自然体な接し方がこの車との付き合い方として正しいのではないか。

このところF3に35mmの単焦点レンズは付けっぱなしで、もうこのままアロンアルファで固定してしまってもいいのではないかなどと思える域に達するほどの馴染みようである。何も考えないでシャッターを切るには最適な画角であって、当コーナータイトル"snapshooting in daily life"にはうってつけのシステムだと思っている。

 


a way back of a hospital;yomaru.net

snapshooting in daily life.


CAMERA :NIKON F3 / Ai-s NIKKOR 35mm 1:2




2006.9.30